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若干違うかもしれないけれど、だいたいこんなんでしたかね。
ハンセン病療養所に行ってきた時のものです。
読んでいただけることもあろうかと載せてみます。
…長いですが(°∀°)
パネェ感じで長いですが(°∀°)
石川さんのお話
ここ松丘保養園の患者さんの平均年齢は79歳です。私はこの園の中では一番若いもので、入所者自治会の会長をやっております。
今日はハンセン病の差別、偏見に至った原因と、それを正す方法を考えていただきたいと思います。
ハンセン病とは、有史以前から忌み嫌われてきた病です。
日本ではまず、1907年にらい予防法ができ、警察の力による強制隔離が進められたことから、恐ろしい伝染病であるという差別・偏見が植え付けられました。しかしこれは嘘だったのです。ハンセン病の原因であるらい菌は弱い菌で感染することも稀な上、死に至ることはまずないといえます。しかし、温度の低いところで分裂、増殖するので、衣服で隠せない末端の部分(口、目、鼻、耳、手足の指)に症状が出るために治癒しても目立つ後遺症が残りやすいのです。60年代には治療薬プロミンができ、治る病気となったものの偏見がなくならなかったのは目に見える後遺症のためでしょう。公共の福祉の名の下に、らい病の者を隔離施設から外に出さないという政策が続けられました。収容者を留める目的で結婚も認められていましたが、優生手術ということで男性は断種手術(精管を切る不妊治療)女性は妊娠した場合堕胎を強制させられるのでした。47年間に1400件の手術、中絶については3000件以上が行われていました。胎児の標本がホルマリン漬けにされ、さらには死者を病理解剖していたということでした。その解剖では
知人という理由で死亡した方の友人が立ち会わされるなど、ひどい人権侵害がおきていました。
また、院内通用券といって、お金は療養所内でのみ使えるお金に換金されていました。なので運良く施設から脱走できても無一文です。小遣いといえば患者作業といって重症患者の介護、看護や土木工事、さらには死亡者の火葬をすることでしかお金を稼げません。その上医療管理は不十分であり、これでは生き残っても病が重くなるだけだといわんばかりでした。脱出を防ぐため施設は土塁で囲まれ、アカシアやバラなどとげのある植物に囲まれていました。暴動を察知すると群馬県にある極寒の患者牢獄に入れられ、22件の獄死が確認されています。
ご本人の経験など
5歳 駅で母と祖母が泣きながら別れるのを目撃。後に祖母がハンセン病で松丘保養園に行っていたことがわかった。
9〜10歳 左耳、左目に部分的につねっても痛くない部分が出てくる。体に湿疹が出る。のちにらい菌のための斑紋だとわかる。
11歳 松丘保養園に検査入院、発病がわかる。その後東京の施設に連れて行かれる。若竹寮という子供用寮に入り、同い年の子供4人と優しい寮母さんと暮らす。母は一度だけ訪問に来た。職員が自分とふれた後すぐ消毒液で手を洗うのがつらかった。子供ながらこの環境と協調することでのみ自分が生きていけることがわかった。しかし周りの友達のおかげで温情や人の暖かさも知ることができた。
14歳 退院。高校卒業までは投薬を続ける。医師にうつらないから大丈夫といわれてもかわいらしい赤ちゃんに(免疫が弱いために)触れることがはばかられ、悲しい思いをする。
ハンセン病療養所では、生徒であるという以前に患者であるということを意識させられました。先生と生徒の関係よりも、健常者と病人という関係でしか接することが出来ず先生は白衣を着て自分に接していました。しかし、保養園の園長は予防着(白衣)を着ていなかったのです。そして彼は、真っ向に生きていきたいのなら、議長になれるくらい勉強しろ、と励ましてくださりました。とても希望の持てる言葉だったことを覚えています。
裁判について
平成13年、熊本地方裁判所は、らい予防法が人としての総体をくずすものだったということを認めました。その際の原告のお一人Kさんのお話をさせていただきます。
Kさんは小2でハンセン病を発症、祖母に大事に育てられたものの叔父などが施設に出すよう主張、泣く泣くわかれハンセン病患者特別列車(いわゆる『お召し列車』)に乗って施設へ向かった。施設で職員は、ものを指し示すのにピンセットを用い、真っ白な保護服を着て、呼ぶには部屋の外でブザーを押さなければならないようにしていた。とても仲の良かった祖母とはずっと手紙を送り合っていたが、ある日から手紙が来なくなり、結局彼女の死が一ヶ月後に知らされる。大人になり、夫婦舎へ行くと、3回も堕胎させられた。普通の人間として生き、普通の人間として生きていたのにこんな生活しか出来ないのがとても悔しかった。
平成八年、らい予防法廃止に関する法律、そして今年の6月にはハンセン病問題の解決の促進に関する法律が定められ、ハンセン病患者はやっと人間として認められるということになりました、しかし未だにすべての患者の苦しみがなくなったわけではありません。国民に伏せられてきた情報を開示すること、そして今後のハンセン病病棟の有効活用といった問題もあります。このことを知るのをきっかけに、皆さんにはハンセン病だけではなく他の感染症について関心を持っていただきたいと思います。
福西さんのお話
私からはハンセン病の歴史をお話したいと思います。ハンセン病は偏見と差別の歴史です。厚生労働省の若い役員にはそのようなことがわかっていないのです。ハンセン病はかつては「ライ病」と呼ばれ、後遺症、不治の病、皮膚の見た目などが原因で忌み嫌われてきました。しかし、治るようになってからでも偏見は終わりません。
その歴史は非常に古く、日本書紀にも記述があります。百済ノ白癩ノ者が庭師としてあつかわれていたということでした。ここでは差別は見られません。養老律令には体疾、廃疾、悪疾という障害者の分類があり、そのうちの悪疾がハンセン病にあたっていました。ただしこれは税金の量を調節するための戸籍上の表示でした。しかし、その100年後に出来た養老律令には、ハンセン病が伝染病であるという記述がみられる。また、仏教が布教されると、癩病は前世の重罪による宿罪、つまり前世の行いが悪かったためになるのだ、という考えが広まり、「嘘をつくと口が歪む」などと、説法に用いられるようにまでなりました。法華経は信じないと癩病になるとまで言われていました。百姓一揆、強訴の時にはこの約束を守らなかったらライになってもかまわない、という表現までされていました。今ライの人は、以前何か約束を破ったからだと言われていました。
1873年ハンセンがらい菌を発見し、1943年にプロミンの有効性がわかってハンセン病が治る病気となってからも差別は簡単には終わらず、今でも現に苦しんでいる人がいます。長い歴史の伏線を知り、しっかり見つめることでこの病の歴史がわかるはずです。長い歴史の中で続いてきた偏見は簡単にはかわりません。かといって年月によってこの病が風化してはなりません。将来医療従事者になるあなたたちにはぜひとも理解してほしいものです。今日の出会いを心に刻んでしっかり考えてほしいと思います。
感想
ハンセン病についてはこの企画がなければずいぶん先までほとんど何も知らずにいたのではないかと思います。お二人のお話はとても貴重なもので、ぜひともたくさんの人に知ってもらいたい、と思いました。
石川さんのお話では、当初はもっと過去に対しての怒りとか、不満をお話しするのかと思っていましたが、 施設で人々とふれあう中で生きるすべを見つけて、 苦しいながらも優しさを忘れずに生きてきた、というような感じで、こんな苦しい中でも感謝を忘れずにいられるなんて、実に心のきれいな方なんだなぁとつくづく思いました。 こういう方が偏見にまみれて差別されてきたかと思うと悲しいです。
福西園長さんからのお話では、 そういえば日本史の学習中、資料集に「癩(ハンセン病のこと)」みたいな注釈を 見た記憶があったので、そういうことか、とうなずきながら聞いていました。 差別された、偏見を持たれた、というのは今らい菌が弱い菌だとわかったから はっきりと言えることであって、それがわかるまでには どうしようもなかったのだとわかりました。 私たちが考えるべきところは、治る病気だとわかってからの人々の対応についてなのですね。
過去に起きてしまったことは戻せない、 そうなると私たちのすべきことは、アフターケアなのでしょう。 強制隔離が正しく、福祉のためになる事例だってもしかしたらあるかもしれない。 しかし隔離されてしまった人の人権を踏みにじることなく最後まで人として尊厳を失わせることはしてはならない。医療者としてやるべきことはそこにあるのでしょうか、などと考えました。
今の自分に直接苦しんだ方のケアをするのはまず無理です。それでも、彼らが望むように、差別と偏見の歴史を知ってもらうことを手助けできるのではないかと思います。学生同士で話し合いができたらいいな、と考えています。そうすれば私一人でも弘前に行ってきた意味があるといえるでしょう。
あー長い。Wordでうpしたかったけどめんどくちゃくて。
お疲れさんでした。
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ハンセン病療養所に行ってきた時のものです。
読んでいただけることもあろうかと載せてみます。
…長いですが(°∀°)
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石川さんのお話
ここ松丘保養園の患者さんの平均年齢は79歳です。私はこの園の中では一番若いもので、入所者自治会の会長をやっております。
今日はハンセン病の差別、偏見に至った原因と、それを正す方法を考えていただきたいと思います。
ハンセン病とは、有史以前から忌み嫌われてきた病です。
日本ではまず、1907年にらい予防法ができ、警察の力による強制隔離が進められたことから、恐ろしい伝染病であるという差別・偏見が植え付けられました。しかしこれは嘘だったのです。ハンセン病の原因であるらい菌は弱い菌で感染することも稀な上、死に至ることはまずないといえます。しかし、温度の低いところで分裂、増殖するので、衣服で隠せない末端の部分(口、目、鼻、耳、手足の指)に症状が出るために治癒しても目立つ後遺症が残りやすいのです。60年代には治療薬プロミンができ、治る病気となったものの偏見がなくならなかったのは目に見える後遺症のためでしょう。公共の福祉の名の下に、らい病の者を隔離施設から外に出さないという政策が続けられました。収容者を留める目的で結婚も認められていましたが、優生手術ということで男性は断種手術(精管を切る不妊治療)女性は妊娠した場合堕胎を強制させられるのでした。47年間に1400件の手術、中絶については3000件以上が行われていました。胎児の標本がホルマリン漬けにされ、さらには死者を病理解剖していたということでした。その解剖では
知人という理由で死亡した方の友人が立ち会わされるなど、ひどい人権侵害がおきていました。
また、院内通用券といって、お金は療養所内でのみ使えるお金に換金されていました。なので運良く施設から脱走できても無一文です。小遣いといえば患者作業といって重症患者の介護、看護や土木工事、さらには死亡者の火葬をすることでしかお金を稼げません。その上医療管理は不十分であり、これでは生き残っても病が重くなるだけだといわんばかりでした。脱出を防ぐため施設は土塁で囲まれ、アカシアやバラなどとげのある植物に囲まれていました。暴動を察知すると群馬県にある極寒の患者牢獄に入れられ、22件の獄死が確認されています。
ご本人の経験など
5歳 駅で母と祖母が泣きながら別れるのを目撃。後に祖母がハンセン病で松丘保養園に行っていたことがわかった。
9〜10歳 左耳、左目に部分的につねっても痛くない部分が出てくる。体に湿疹が出る。のちにらい菌のための斑紋だとわかる。
11歳 松丘保養園に検査入院、発病がわかる。その後東京の施設に連れて行かれる。若竹寮という子供用寮に入り、同い年の子供4人と優しい寮母さんと暮らす。母は一度だけ訪問に来た。職員が自分とふれた後すぐ消毒液で手を洗うのがつらかった。子供ながらこの環境と協調することでのみ自分が生きていけることがわかった。しかし周りの友達のおかげで温情や人の暖かさも知ることができた。
14歳 退院。高校卒業までは投薬を続ける。医師にうつらないから大丈夫といわれてもかわいらしい赤ちゃんに(免疫が弱いために)触れることがはばかられ、悲しい思いをする。
ハンセン病療養所では、生徒であるという以前に患者であるということを意識させられました。先生と生徒の関係よりも、健常者と病人という関係でしか接することが出来ず先生は白衣を着て自分に接していました。しかし、保養園の園長は予防着(白衣)を着ていなかったのです。そして彼は、真っ向に生きていきたいのなら、議長になれるくらい勉強しろ、と励ましてくださりました。とても希望の持てる言葉だったことを覚えています。
裁判について
平成13年、熊本地方裁判所は、らい予防法が人としての総体をくずすものだったということを認めました。その際の原告のお一人Kさんのお話をさせていただきます。
Kさんは小2でハンセン病を発症、祖母に大事に育てられたものの叔父などが施設に出すよう主張、泣く泣くわかれハンセン病患者特別列車(いわゆる『お召し列車』)に乗って施設へ向かった。施設で職員は、ものを指し示すのにピンセットを用い、真っ白な保護服を着て、呼ぶには部屋の外でブザーを押さなければならないようにしていた。とても仲の良かった祖母とはずっと手紙を送り合っていたが、ある日から手紙が来なくなり、結局彼女の死が一ヶ月後に知らされる。大人になり、夫婦舎へ行くと、3回も堕胎させられた。普通の人間として生き、普通の人間として生きていたのにこんな生活しか出来ないのがとても悔しかった。
平成八年、らい予防法廃止に関する法律、そして今年の6月にはハンセン病問題の解決の促進に関する法律が定められ、ハンセン病患者はやっと人間として認められるということになりました、しかし未だにすべての患者の苦しみがなくなったわけではありません。国民に伏せられてきた情報を開示すること、そして今後のハンセン病病棟の有効活用といった問題もあります。このことを知るのをきっかけに、皆さんにはハンセン病だけではなく他の感染症について関心を持っていただきたいと思います。
福西さんのお話
私からはハンセン病の歴史をお話したいと思います。ハンセン病は偏見と差別の歴史です。厚生労働省の若い役員にはそのようなことがわかっていないのです。ハンセン病はかつては「ライ病」と呼ばれ、後遺症、不治の病、皮膚の見た目などが原因で忌み嫌われてきました。しかし、治るようになってからでも偏見は終わりません。
その歴史は非常に古く、日本書紀にも記述があります。百済ノ白癩ノ者が庭師としてあつかわれていたということでした。ここでは差別は見られません。養老律令には体疾、廃疾、悪疾という障害者の分類があり、そのうちの悪疾がハンセン病にあたっていました。ただしこれは税金の量を調節するための戸籍上の表示でした。しかし、その100年後に出来た養老律令には、ハンセン病が伝染病であるという記述がみられる。また、仏教が布教されると、癩病は前世の重罪による宿罪、つまり前世の行いが悪かったためになるのだ、という考えが広まり、「嘘をつくと口が歪む」などと、説法に用いられるようにまでなりました。法華経は信じないと癩病になるとまで言われていました。百姓一揆、強訴の時にはこの約束を守らなかったらライになってもかまわない、という表現までされていました。今ライの人は、以前何か約束を破ったからだと言われていました。
1873年ハンセンがらい菌を発見し、1943年にプロミンの有効性がわかってハンセン病が治る病気となってからも差別は簡単には終わらず、今でも現に苦しんでいる人がいます。長い歴史の伏線を知り、しっかり見つめることでこの病の歴史がわかるはずです。長い歴史の中で続いてきた偏見は簡単にはかわりません。かといって年月によってこの病が風化してはなりません。将来医療従事者になるあなたたちにはぜひとも理解してほしいものです。今日の出会いを心に刻んでしっかり考えてほしいと思います。
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