×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
写真だけageときます。
何があったのかはご想像にお任せしちゃいます。

場所によっちゃ混んでる。

働く先輩たち。ケータイで撮ってる働かない後輩←
BBQいいですよ。肉の争奪戦。

ぴったりサイズの穴を掘った先輩。…なぜ??

カモメさんと仲良くなりました。

1/3の確率でスイカが割れ、同じく1/3の確率で棒がはね返り、
1/3の確率で死者が出ます。
スイカはどれでしょう(ぇ
医学生ブログランキングに投票お願いしまっす☆
何があったのかはご想像にお任せしちゃいます。

場所によっちゃ混んでる。

働く先輩たち。ケータイで撮ってる働かない後輩←
BBQいいですよ。肉の争奪戦。

ぴったりサイズの穴を掘った先輩。…なぜ??

カモメさんと仲良くなりました。

1/3の確率でスイカが割れ、同じく1/3の確率で棒がはね返り、
1/3の確率で死者が出ます。
スイカはどれでしょう(ぇ
医学生ブログランキングに投票お願いしまっす☆
PR
1年生に期末テストが訪れ。
(゜∀゜)
ガストなんで勉強禁止しますかね。
仕方なくて今日はマクドナルドで勉強してまいったのです。
エアコン効いてる。
フルーリー冷たい。
テスト中お腹が壊れないといいです。
海のお話はまた今度ですかね。
明日は物理と知的財産権のテストですかね。
ふるぼっこにしてやんよ。
もうそろそろ花笠の季節です。
七日町はきれいですよ☆

医学生ブログランキングに投票お願いしまっす☆
(゜∀゜)
ガストなんで勉強禁止しますかね。
仕方なくて今日はマクドナルドで勉強してまいったのです。
エアコン効いてる。
フルーリー冷たい。
テスト中お腹が壊れないといいです。
海のお話はまた今度ですかね。
明日は物理と知的財産権のテストですかね。
ふるぼっこにしてやんよ。
もうそろそろ花笠の季節です。
七日町はきれいですよ☆

医学生ブログランキングに投票お願いしまっす☆
若干違うかもしれないけれど、だいたいこんなんでしたかね。
ハンセン病療養所に行ってきた時のものです。
読んでいただけることもあろうかと載せてみます。
…長いですが(°∀°)
パネェ感じで長いですが(°∀°)
石川さんのお話
ここ松丘保養園の患者さんの平均年齢は79歳です。私はこの園の中では一番若いもので、入所者自治会の会長をやっております。
今日はハンセン病の差別、偏見に至った原因と、それを正す方法を考えていただきたいと思います。
ハンセン病とは、有史以前から忌み嫌われてきた病です。
日本ではまず、1907年にらい予防法ができ、警察の力による強制隔離が進められたことから、恐ろしい伝染病であるという差別・偏見が植え付けられました。しかしこれは嘘だったのです。ハンセン病の原因であるらい菌は弱い菌で感染することも稀な上、死に至ることはまずないといえます。しかし、温度の低いところで分裂、増殖するので、衣服で隠せない末端の部分(口、目、鼻、耳、手足の指)に症状が出るために治癒しても目立つ後遺症が残りやすいのです。60年代には治療薬プロミンができ、治る病気となったものの偏見がなくならなかったのは目に見える後遺症のためでしょう。公共の福祉の名の下に、らい病の者を隔離施設から外に出さないという政策が続けられました。収容者を留める目的で結婚も認められていましたが、優生手術ということで男性は断種手術(精管を切る不妊治療)女性は妊娠した場合堕胎を強制させられるのでした。47年間に1400件の手術、中絶については3000件以上が行われていました。胎児の標本がホルマリン漬けにされ、さらには死者を病理解剖していたということでした。その解剖では
知人という理由で死亡した方の友人が立ち会わされるなど、ひどい人権侵害がおきていました。
また、院内通用券といって、お金は療養所内でのみ使えるお金に換金されていました。なので運良く施設から脱走できても無一文です。小遣いといえば患者作業といって重症患者の介護、看護や土木工事、さらには死亡者の火葬をすることでしかお金を稼げません。その上医療管理は不十分であり、これでは生き残っても病が重くなるだけだといわんばかりでした。脱出を防ぐため施設は土塁で囲まれ、アカシアやバラなどとげのある植物に囲まれていました。暴動を察知すると群馬県にある極寒の患者牢獄に入れられ、22件の獄死が確認されています。
ご本人の経験など
5歳 駅で母と祖母が泣きながら別れるのを目撃。後に祖母がハンセン病で松丘保養園に行っていたことがわかった。
9〜10歳 左耳、左目に部分的につねっても痛くない部分が出てくる。体に湿疹が出る。のちにらい菌のための斑紋だとわかる。
11歳 松丘保養園に検査入院、発病がわかる。その後東京の施設に連れて行かれる。若竹寮という子供用寮に入り、同い年の子供4人と優しい寮母さんと暮らす。母は一度だけ訪問に来た。職員が自分とふれた後すぐ消毒液で手を洗うのがつらかった。子供ながらこの環境と協調することでのみ自分が生きていけることがわかった。しかし周りの友達のおかげで温情や人の暖かさも知ることができた。
14歳 退院。高校卒業までは投薬を続ける。医師にうつらないから大丈夫といわれてもかわいらしい赤ちゃんに(免疫が弱いために)触れることがはばかられ、悲しい思いをする。
ハンセン病療養所では、生徒であるという以前に患者であるということを意識させられました。先生と生徒の関係よりも、健常者と病人という関係でしか接することが出来ず先生は白衣を着て自分に接していました。しかし、保養園の園長は予防着(白衣)を着ていなかったのです。そして彼は、真っ向に生きていきたいのなら、議長になれるくらい勉強しろ、と励ましてくださりました。とても希望の持てる言葉だったことを覚えています。
裁判について
平成13年、熊本地方裁判所は、らい予防法が人としての総体をくずすものだったということを認めました。その際の原告のお一人Kさんのお話をさせていただきます。
Kさんは小2でハンセン病を発症、祖母に大事に育てられたものの叔父などが施設に出すよう主張、泣く泣くわかれハンセン病患者特別列車(いわゆる『お召し列車』)に乗って施設へ向かった。施設で職員は、ものを指し示すのにピンセットを用い、真っ白な保護服を着て、呼ぶには部屋の外でブザーを押さなければならないようにしていた。とても仲の良かった祖母とはずっと手紙を送り合っていたが、ある日から手紙が来なくなり、結局彼女の死が一ヶ月後に知らされる。大人になり、夫婦舎へ行くと、3回も堕胎させられた。普通の人間として生き、普通の人間として生きていたのにこんな生活しか出来ないのがとても悔しかった。
平成八年、らい予防法廃止に関する法律、そして今年の6月にはハンセン病問題の解決の促進に関する法律が定められ、ハンセン病患者はやっと人間として認められるということになりました、しかし未だにすべての患者の苦しみがなくなったわけではありません。国民に伏せられてきた情報を開示すること、そして今後のハンセン病病棟の有効活用といった問題もあります。このことを知るのをきっかけに、皆さんにはハンセン病だけではなく他の感染症について関心を持っていただきたいと思います。
福西さんのお話
私からはハンセン病の歴史をお話したいと思います。ハンセン病は偏見と差別の歴史です。厚生労働省の若い役員にはそのようなことがわかっていないのです。ハンセン病はかつては「ライ病」と呼ばれ、後遺症、不治の病、皮膚の見た目などが原因で忌み嫌われてきました。しかし、治るようになってからでも偏見は終わりません。
その歴史は非常に古く、日本書紀にも記述があります。百済ノ白癩ノ者が庭師としてあつかわれていたということでした。ここでは差別は見られません。養老律令には体疾、廃疾、悪疾という障害者の分類があり、そのうちの悪疾がハンセン病にあたっていました。ただしこれは税金の量を調節するための戸籍上の表示でした。しかし、その100年後に出来た養老律令には、ハンセン病が伝染病であるという記述がみられる。また、仏教が布教されると、癩病は前世の重罪による宿罪、つまり前世の行いが悪かったためになるのだ、という考えが広まり、「嘘をつくと口が歪む」などと、説法に用いられるようにまでなりました。法華経は信じないと癩病になるとまで言われていました。百姓一揆、強訴の時にはこの約束を守らなかったらライになってもかまわない、という表現までされていました。今ライの人は、以前何か約束を破ったからだと言われていました。
1873年ハンセンがらい菌を発見し、1943年にプロミンの有効性がわかってハンセン病が治る病気となってからも差別は簡単には終わらず、今でも現に苦しんでいる人がいます。長い歴史の伏線を知り、しっかり見つめることでこの病の歴史がわかるはずです。長い歴史の中で続いてきた偏見は簡単にはかわりません。かといって年月によってこの病が風化してはなりません。将来医療従事者になるあなたたちにはぜひとも理解してほしいものです。今日の出会いを心に刻んでしっかり考えてほしいと思います。
感想
ハンセン病についてはこの企画がなければずいぶん先までほとんど何も知らずにいたのではないかと思います。お二人のお話はとても貴重なもので、ぜひともたくさんの人に知ってもらいたい、と思いました。
石川さんのお話では、当初はもっと過去に対しての怒りとか、不満をお話しするのかと思っていましたが、 施設で人々とふれあう中で生きるすべを見つけて、 苦しいながらも優しさを忘れずに生きてきた、というような感じで、こんな苦しい中でも感謝を忘れずにいられるなんて、実に心のきれいな方なんだなぁとつくづく思いました。 こういう方が偏見にまみれて差別されてきたかと思うと悲しいです。
福西園長さんからのお話では、 そういえば日本史の学習中、資料集に「癩(ハンセン病のこと)」みたいな注釈を 見た記憶があったので、そういうことか、とうなずきながら聞いていました。 差別された、偏見を持たれた、というのは今らい菌が弱い菌だとわかったから はっきりと言えることであって、それがわかるまでには どうしようもなかったのだとわかりました。 私たちが考えるべきところは、治る病気だとわかってからの人々の対応についてなのですね。
過去に起きてしまったことは戻せない、 そうなると私たちのすべきことは、アフターケアなのでしょう。 強制隔離が正しく、福祉のためになる事例だってもしかしたらあるかもしれない。 しかし隔離されてしまった人の人権を踏みにじることなく最後まで人として尊厳を失わせることはしてはならない。医療者としてやるべきことはそこにあるのでしょうか、などと考えました。
今の自分に直接苦しんだ方のケアをするのはまず無理です。それでも、彼らが望むように、差別と偏見の歴史を知ってもらうことを手助けできるのではないかと思います。学生同士で話し合いができたらいいな、と考えています。そうすれば私一人でも弘前に行ってきた意味があるといえるでしょう。
あー長い。Wordでうpしたかったけどめんどくちゃくて。
お疲れさんでした。
医学生ブログランキングに投票お願いしまっす☆
ハンセン病療養所に行ってきた時のものです。
読んでいただけることもあろうかと載せてみます。
…長いですが(°∀°)
パネェ感じで長いですが(°∀°)
石川さんのお話
ここ松丘保養園の患者さんの平均年齢は79歳です。私はこの園の中では一番若いもので、入所者自治会の会長をやっております。
今日はハンセン病の差別、偏見に至った原因と、それを正す方法を考えていただきたいと思います。
ハンセン病とは、有史以前から忌み嫌われてきた病です。
日本ではまず、1907年にらい予防法ができ、警察の力による強制隔離が進められたことから、恐ろしい伝染病であるという差別・偏見が植え付けられました。しかしこれは嘘だったのです。ハンセン病の原因であるらい菌は弱い菌で感染することも稀な上、死に至ることはまずないといえます。しかし、温度の低いところで分裂、増殖するので、衣服で隠せない末端の部分(口、目、鼻、耳、手足の指)に症状が出るために治癒しても目立つ後遺症が残りやすいのです。60年代には治療薬プロミンができ、治る病気となったものの偏見がなくならなかったのは目に見える後遺症のためでしょう。公共の福祉の名の下に、らい病の者を隔離施設から外に出さないという政策が続けられました。収容者を留める目的で結婚も認められていましたが、優生手術ということで男性は断種手術(精管を切る不妊治療)女性は妊娠した場合堕胎を強制させられるのでした。47年間に1400件の手術、中絶については3000件以上が行われていました。胎児の標本がホルマリン漬けにされ、さらには死者を病理解剖していたということでした。その解剖では
知人という理由で死亡した方の友人が立ち会わされるなど、ひどい人権侵害がおきていました。
また、院内通用券といって、お金は療養所内でのみ使えるお金に換金されていました。なので運良く施設から脱走できても無一文です。小遣いといえば患者作業といって重症患者の介護、看護や土木工事、さらには死亡者の火葬をすることでしかお金を稼げません。その上医療管理は不十分であり、これでは生き残っても病が重くなるだけだといわんばかりでした。脱出を防ぐため施設は土塁で囲まれ、アカシアやバラなどとげのある植物に囲まれていました。暴動を察知すると群馬県にある極寒の患者牢獄に入れられ、22件の獄死が確認されています。
ご本人の経験など
5歳 駅で母と祖母が泣きながら別れるのを目撃。後に祖母がハンセン病で松丘保養園に行っていたことがわかった。
9〜10歳 左耳、左目に部分的につねっても痛くない部分が出てくる。体に湿疹が出る。のちにらい菌のための斑紋だとわかる。
11歳 松丘保養園に検査入院、発病がわかる。その後東京の施設に連れて行かれる。若竹寮という子供用寮に入り、同い年の子供4人と優しい寮母さんと暮らす。母は一度だけ訪問に来た。職員が自分とふれた後すぐ消毒液で手を洗うのがつらかった。子供ながらこの環境と協調することでのみ自分が生きていけることがわかった。しかし周りの友達のおかげで温情や人の暖かさも知ることができた。
14歳 退院。高校卒業までは投薬を続ける。医師にうつらないから大丈夫といわれてもかわいらしい赤ちゃんに(免疫が弱いために)触れることがはばかられ、悲しい思いをする。
ハンセン病療養所では、生徒であるという以前に患者であるということを意識させられました。先生と生徒の関係よりも、健常者と病人という関係でしか接することが出来ず先生は白衣を着て自分に接していました。しかし、保養園の園長は予防着(白衣)を着ていなかったのです。そして彼は、真っ向に生きていきたいのなら、議長になれるくらい勉強しろ、と励ましてくださりました。とても希望の持てる言葉だったことを覚えています。
裁判について
平成13年、熊本地方裁判所は、らい予防法が人としての総体をくずすものだったということを認めました。その際の原告のお一人Kさんのお話をさせていただきます。
Kさんは小2でハンセン病を発症、祖母に大事に育てられたものの叔父などが施設に出すよう主張、泣く泣くわかれハンセン病患者特別列車(いわゆる『お召し列車』)に乗って施設へ向かった。施設で職員は、ものを指し示すのにピンセットを用い、真っ白な保護服を着て、呼ぶには部屋の外でブザーを押さなければならないようにしていた。とても仲の良かった祖母とはずっと手紙を送り合っていたが、ある日から手紙が来なくなり、結局彼女の死が一ヶ月後に知らされる。大人になり、夫婦舎へ行くと、3回も堕胎させられた。普通の人間として生き、普通の人間として生きていたのにこんな生活しか出来ないのがとても悔しかった。
平成八年、らい予防法廃止に関する法律、そして今年の6月にはハンセン病問題の解決の促進に関する法律が定められ、ハンセン病患者はやっと人間として認められるということになりました、しかし未だにすべての患者の苦しみがなくなったわけではありません。国民に伏せられてきた情報を開示すること、そして今後のハンセン病病棟の有効活用といった問題もあります。このことを知るのをきっかけに、皆さんにはハンセン病だけではなく他の感染症について関心を持っていただきたいと思います。
福西さんのお話
私からはハンセン病の歴史をお話したいと思います。ハンセン病は偏見と差別の歴史です。厚生労働省の若い役員にはそのようなことがわかっていないのです。ハンセン病はかつては「ライ病」と呼ばれ、後遺症、不治の病、皮膚の見た目などが原因で忌み嫌われてきました。しかし、治るようになってからでも偏見は終わりません。
その歴史は非常に古く、日本書紀にも記述があります。百済ノ白癩ノ者が庭師としてあつかわれていたということでした。ここでは差別は見られません。養老律令には体疾、廃疾、悪疾という障害者の分類があり、そのうちの悪疾がハンセン病にあたっていました。ただしこれは税金の量を調節するための戸籍上の表示でした。しかし、その100年後に出来た養老律令には、ハンセン病が伝染病であるという記述がみられる。また、仏教が布教されると、癩病は前世の重罪による宿罪、つまり前世の行いが悪かったためになるのだ、という考えが広まり、「嘘をつくと口が歪む」などと、説法に用いられるようにまでなりました。法華経は信じないと癩病になるとまで言われていました。百姓一揆、強訴の時にはこの約束を守らなかったらライになってもかまわない、という表現までされていました。今ライの人は、以前何か約束を破ったからだと言われていました。
1873年ハンセンがらい菌を発見し、1943年にプロミンの有効性がわかってハンセン病が治る病気となってからも差別は簡単には終わらず、今でも現に苦しんでいる人がいます。長い歴史の伏線を知り、しっかり見つめることでこの病の歴史がわかるはずです。長い歴史の中で続いてきた偏見は簡単にはかわりません。かといって年月によってこの病が風化してはなりません。将来医療従事者になるあなたたちにはぜひとも理解してほしいものです。今日の出会いを心に刻んでしっかり考えてほしいと思います。
感想
ハンセン病についてはこの企画がなければずいぶん先までほとんど何も知らずにいたのではないかと思います。お二人のお話はとても貴重なもので、ぜひともたくさんの人に知ってもらいたい、と思いました。
石川さんのお話では、当初はもっと過去に対しての怒りとか、不満をお話しするのかと思っていましたが、 施設で人々とふれあう中で生きるすべを見つけて、 苦しいながらも優しさを忘れずに生きてきた、というような感じで、こんな苦しい中でも感謝を忘れずにいられるなんて、実に心のきれいな方なんだなぁとつくづく思いました。 こういう方が偏見にまみれて差別されてきたかと思うと悲しいです。
福西園長さんからのお話では、 そういえば日本史の学習中、資料集に「癩(ハンセン病のこと)」みたいな注釈を 見た記憶があったので、そういうことか、とうなずきながら聞いていました。 差別された、偏見を持たれた、というのは今らい菌が弱い菌だとわかったから はっきりと言えることであって、それがわかるまでには どうしようもなかったのだとわかりました。 私たちが考えるべきところは、治る病気だとわかってからの人々の対応についてなのですね。
過去に起きてしまったことは戻せない、 そうなると私たちのすべきことは、アフターケアなのでしょう。 強制隔離が正しく、福祉のためになる事例だってもしかしたらあるかもしれない。 しかし隔離されてしまった人の人権を踏みにじることなく最後まで人として尊厳を失わせることはしてはならない。医療者としてやるべきことはそこにあるのでしょうか、などと考えました。
今の自分に直接苦しんだ方のケアをするのはまず無理です。それでも、彼らが望むように、差別と偏見の歴史を知ってもらうことを手助けできるのではないかと思います。学生同士で話し合いができたらいいな、と考えています。そうすれば私一人でも弘前に行ってきた意味があるといえるでしょう。
あー長い。Wordでうpしたかったけどめんどくちゃくて。
お疲れさんでした。
医学生ブログランキングに投票お願いしまっす☆
七夕も終わっちゃって皆さんお元気でしょうか。
もすこし前の話ですがなんとなくテレビつけたら予告流れたんで見ましたtomorrow。
医療系ドラマ大はやりだねぇ。まぁ儲けとけって笑
内容は…めちゃめちゃ詰め合わせな感じww
・地方病院の大幅赤字
・医師不足
・特に産婦人科
・分娩ができない病院
・飛び込み出産
・専門病院化
これでもかって感じすかね笑
まぁでもかなり真剣に見てました。
だってエドはるみさん士長似合いすぎだし!!

いるよあんな看護士さん。
ほんとはまり役(〇゜д゜)d
いやしかし8年メスとってなかったお医者さんが
突然帝王切開で分娩しちゃうなんてどうなんでしょ。
とかいいながらやっぱ出産シーンはボロボロ泣いてましたな。
その次の日赤ちゃん役の子の髪の毛がふさふさだったのが
お約束な感じで笑えましたが。
でもさ、ほんと仲良くなった患者さんが目の前で死んじゃったらどうすればいいんだろう、なんて。
めちゃめちゃ涙腺弱いので泣いちゃうかもしれないですが、
泣くくらいだったらその前にできることがあっただろう、て言われるんだろうな。
まあこんなこと今心配しても仕方ないけどね。
いろいろ考えた日曜日でした。
来週見逃さないようにしなきゃ。
七夕は…部活で矢を1本あてたくらいで
主に自宅でぐだぐだしてましたな。
リアルでは短冊書かなかったな。
ネット依存してるな…線つながないようにしよう笑
咳治らない…また同じ薬出されたらイヤだなぁ。
でも早く治さないと予防接種できない→救急車実習できないのですよ(ノ_・。)
ムンプスとかかかるのか?耳下腺炎なんてあんま知らない…
…と思ったらおたふく風邪なのね。恥かいた。。。
まぁそんなこんなで病院行きましたさ。ドラえもん読んだし。
無理いって予防接種のお願いもしてきちゃった。困ってたな、ごめんなさい。
さて今日はちゃんと夕飯作らねば。
医学生ブログランキングに投票お願いしまっす☆
もすこし前の話ですがなんとなくテレビつけたら予告流れたんで見ましたtomorrow。
医療系ドラマ大はやりだねぇ。まぁ儲けとけって笑
内容は…めちゃめちゃ詰め合わせな感じww
・地方病院の大幅赤字
・医師不足
・特に産婦人科
・分娩ができない病院
・飛び込み出産
・専門病院化
これでもかって感じすかね笑
まぁでもかなり真剣に見てました。
だってエドはるみさん士長似合いすぎだし!!

いるよあんな看護士さん。
ほんとはまり役(〇゜д゜)d
いやしかし8年メスとってなかったお医者さんが
突然帝王切開で分娩しちゃうなんてどうなんでしょ。
とかいいながらやっぱ出産シーンはボロボロ泣いてましたな。
その次の日赤ちゃん役の子の髪の毛がふさふさだったのが
お約束な感じで笑えましたが。
でもさ、ほんと仲良くなった患者さんが目の前で死んじゃったらどうすればいいんだろう、なんて。
めちゃめちゃ涙腺弱いので泣いちゃうかもしれないですが、
泣くくらいだったらその前にできることがあっただろう、て言われるんだろうな。
まあこんなこと今心配しても仕方ないけどね。
いろいろ考えた日曜日でした。
来週見逃さないようにしなきゃ。
七夕は…部活で矢を1本あてたくらいで
主に自宅でぐだぐだしてましたな。
リアルでは短冊書かなかったな。
ネット依存してるな…線つながないようにしよう笑
咳治らない…また同じ薬出されたらイヤだなぁ。
でも早く治さないと予防接種できない→救急車実習できないのですよ(ノ_・。)
ムンプスとかかかるのか?耳下腺炎なんてあんま知らない…
…と思ったらおたふく風邪なのね。恥かいた。。。
まぁそんなこんなで病院行きましたさ。ドラえもん読んだし。
無理いって予防接種のお願いもしてきちゃった。困ってたな、ごめんなさい。
さて今日はちゃんと夕飯作らねば。
医学生ブログランキングに投票お願いしまっす☆
盛岡からバスで2時間、弘前駅着。遠いなぁ。

とりあえずポストにリンゴという謎の組み合わせがお出迎え。
ミスド前で弘前医ゼミの3年生、6年生の方に車に拾っていただく!
近くのガストで2年生の東京医ゼミの方と合流。
わいわい楽しく車で少し行くと、オープンキャンパスで見覚えのある
弘前大学医学部の門。
も少し過ぎて、小講義室というところに案内していただく。

だんだんと人が集まり、結局20人くらいであることが判明。
名札をつけてはじまりはじまり。
松丘保養園は青森市内にあるので、ちょっと遠い。
車に分乗し、車内でサンドイッチ食べる。
病み上がりで眠いorz
しかし弘前市内の謎のラベンダーの大集団には感動しました…
あれはまじめにすごいです。ムービーとったくらいww
車が一緒になった方が、同じ盛一出身の秋田の2年生の方で、
ちょっとお話をしました。
眠くてごめんなさい。

はるばる車で1時間くらい?到着です。どでーん。
若干薄暗くて緊張しました。
古いことは古いですが掃除が行き届いたきれいな施設。
まずはハンセン病元患者さんの石川さんからお話をいただきました。
お話のまとめは今やっているところです。
感想としては、
ハンセン病についてとご自身の経験についてと
2本立てで話していただきましたが、
もっと過去に対しての怒りとか、不満をお話しするのかと思っていましたが、
施設で人々とふれあう中で生きるすべを見つけて、
苦しいながらも優しさを忘れずに生きてきた、というような感じで、
心のきれいな方なんだなぁとつくづく思いました。
こういう方が偏見にまみれて差別されてきたかと思うと悲しいです。
次に福西園長さんからのお話。
これもまとめていないので感想ですが、
日本史の古代まで遡って歴史的な観点からハンセン病の理解を
促してくださいました。
そういえば資料集に「癩(ハンセン病のこと)」みたいな注釈を
見た記憶があったので、そういうことか、とうなずきながら聞いていました。
差別された、偏見を持たれた、というのは今らい菌が弱い菌だとわかったから
はっきりと言えることであって、それがわかるまでには
どうしようもなかったのだとわかりました。
私たちが考えるべきところは、治る病気だとわかってからの
人々の対応についてです。
過去に起きてしまったことは戻せない、
そうなると私たちのすべきことは、アフターケアなのだとわかりました。
強制隔離が正しく、福祉のためになる事例だってもしかしたらあるかもしれない。
しかし隔離されてしまった人の人権を踏みにじることなく
最後まで人として尊厳を失わせることはしてはならない。
医療者としての役割はそこにあるのでしょう。
お話の後は、施設の見学に回りました。

こちらは、患者さんの使っている寮です。
すべて一戸建ての集合住宅で、間には畑があり花がきれいに咲いていました。
牢獄のような雰囲気でもなければ、村といった雰囲気でもない、
なんだか別の世界にきたような違和感を覚えました。
ほとんどが空き部屋ですが、もちろん今でも住んでいる方がいます。
花を育て、日々を送っているようでした。
この時代になっても家族と一緒に暮らせないなんて、どんなに無念なのでしょうか。
でも、私たちが挨拶すると笑顔で応じてくださいました。
他にも面会室や図書室といった白いコンクリ固めの各施設や、
お寺、教会、納骨堂、慰霊碑などを見てきました。
どこも木々が多く緑豊かな場所なのですが
やはり悲しい歴史を孕むためか、落ち着かない空気を感じました。
宗教施設が多いのは、心のよりどころとするためだそうです。

こいつは建設中の医療施設なんだとか。
高齢なハンセン病患者さんは減り続ける一方で、
施設の有効活用が計画されています。
ただ、昔のイメージを持ったまま、病気の施設を使いたくないと考える人も
未だにいるらしく、賛否両論ありますが工事は進められているようです。
そんな感じで施設見学を終え、また1時間車で弘前へ。
私はバスの時間もあったためSGD(Small Group Discussion)も途中で抜け、
怒濤の勢いでお土産を買い、バスで爆睡して無事帰還しました。
初医ゼミ、充実したものになったものの
最後まで参加できず残念無念。
移動時間が想像以上に多くて若干疲れましたし。
1人でいろいろできたのもいいけれど、
やっぱり誰かと一緒の方が良かったかなぁと思いつつ。
群馬では3人くらいかな?で頑張ろうかと思います(°∀°)
とりあえず講演のまとめなんかをこなしていきたいです。
テストが入る前に…orz

とりあえずポストにリンゴという謎の組み合わせがお出迎え。
ミスド前で弘前医ゼミの3年生、6年生の方に車に拾っていただく!
近くのガストで2年生の東京医ゼミの方と合流。
わいわい楽しく車で少し行くと、オープンキャンパスで見覚えのある
弘前大学医学部の門。
も少し過ぎて、小講義室というところに案内していただく。

だんだんと人が集まり、結局20人くらいであることが判明。
名札をつけてはじまりはじまり。
松丘保養園は青森市内にあるので、ちょっと遠い。
車に分乗し、車内でサンドイッチ食べる。
病み上がりで眠いorz
しかし弘前市内の謎のラベンダーの大集団には感動しました…
あれはまじめにすごいです。ムービーとったくらいww
車が一緒になった方が、同じ盛一出身の秋田の2年生の方で、
ちょっとお話をしました。
眠くてごめんなさい。

はるばる車で1時間くらい?到着です。どでーん。
若干薄暗くて緊張しました。
古いことは古いですが掃除が行き届いたきれいな施設。
まずはハンセン病元患者さんの石川さんからお話をいただきました。
お話のまとめは今やっているところです。
感想としては、
ハンセン病についてとご自身の経験についてと
2本立てで話していただきましたが、
もっと過去に対しての怒りとか、不満をお話しするのかと思っていましたが、
施設で人々とふれあう中で生きるすべを見つけて、
苦しいながらも優しさを忘れずに生きてきた、というような感じで、
心のきれいな方なんだなぁとつくづく思いました。
こういう方が偏見にまみれて差別されてきたかと思うと悲しいです。
次に福西園長さんからのお話。
これもまとめていないので感想ですが、
日本史の古代まで遡って歴史的な観点からハンセン病の理解を
促してくださいました。
そういえば資料集に「癩(ハンセン病のこと)」みたいな注釈を
見た記憶があったので、そういうことか、とうなずきながら聞いていました。
差別された、偏見を持たれた、というのは今らい菌が弱い菌だとわかったから
はっきりと言えることであって、それがわかるまでには
どうしようもなかったのだとわかりました。
私たちが考えるべきところは、治る病気だとわかってからの
人々の対応についてです。
過去に起きてしまったことは戻せない、
そうなると私たちのすべきことは、アフターケアなのだとわかりました。
強制隔離が正しく、福祉のためになる事例だってもしかしたらあるかもしれない。
しかし隔離されてしまった人の人権を踏みにじることなく
最後まで人として尊厳を失わせることはしてはならない。
医療者としての役割はそこにあるのでしょう。
お話の後は、施設の見学に回りました。

こちらは、患者さんの使っている寮です。
すべて一戸建ての集合住宅で、間には畑があり花がきれいに咲いていました。
牢獄のような雰囲気でもなければ、村といった雰囲気でもない、
なんだか別の世界にきたような違和感を覚えました。
ほとんどが空き部屋ですが、もちろん今でも住んでいる方がいます。
花を育て、日々を送っているようでした。
この時代になっても家族と一緒に暮らせないなんて、どんなに無念なのでしょうか。
でも、私たちが挨拶すると笑顔で応じてくださいました。
他にも面会室や図書室といった白いコンクリ固めの各施設や、
お寺、教会、納骨堂、慰霊碑などを見てきました。
どこも木々が多く緑豊かな場所なのですが
やはり悲しい歴史を孕むためか、落ち着かない空気を感じました。
宗教施設が多いのは、心のよりどころとするためだそうです。

こいつは建設中の医療施設なんだとか。
高齢なハンセン病患者さんは減り続ける一方で、
施設の有効活用が計画されています。
ただ、昔のイメージを持ったまま、病気の施設を使いたくないと考える人も
未だにいるらしく、賛否両論ありますが工事は進められているようです。
そんな感じで施設見学を終え、また1時間車で弘前へ。
私はバスの時間もあったためSGD(Small Group Discussion)も途中で抜け、
怒濤の勢いでお土産を買い、バスで爆睡して無事帰還しました。
初医ゼミ、充実したものになったものの
最後まで参加できず残念無念。
移動時間が想像以上に多くて若干疲れましたし。
1人でいろいろできたのもいいけれど、
やっぱり誰かと一緒の方が良かったかなぁと思いつつ。
群馬では3人くらいかな?で頑張ろうかと思います(°∀°)
とりあえず講演のまとめなんかをこなしていきたいです。
テストが入る前に…orz
プロフィール
HN:
さー
性別:
女性
職業:
医学生兼自宅警備員
自己紹介:

にほんブログ村
さーと申します。
片田舎の医学生です。
5年生とか、
試験の受け方を忘れそう
ポリクリ残るは
外科うろぎねあたり。
ちょっと詳しい自己紹介。
このブログを通してたくさんの方から励ましていただいたり、ご意見いただいたり、人の輪が広がったり、とても楽しくてためになっております。
読んだついでに投票やコメント下さるとジャンピング土下座いたします。
ブログランキング参加中。
クリックいただけたら喜びます。

にほんブログ村
さーと申します。
片田舎の医学生です。
5年生とか、
試験の受け方を忘れそう
ポリクリ残るは
外科うろぎねあたり。
ちょっと詳しい自己紹介。
このブログを通してたくさんの方から励ましていただいたり、ご意見いただいたり、人の輪が広がったり、とても楽しくてためになっております。
読んだついでに投票やコメント下さるとジャンピング土下座いたします。
ブログランキング参加中。
クリックいただけたら喜びます。
カレンダー
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
最新TB
リンク
ブログ内検索
ぐーばー
解析。